インドあるある都市伝説 数学センス

インド経験 徒然

インド人=数学得意は大うそ

インド人は数学が得意で頭が良い!

そんな都市伝説を信じ、実際にインド人とビジネスをして騙された人は多いことと思います。日本にいるインド人なら金融やITのエリートなのでまだしも、インドでインド人と仕事をした経験のある人は、この手の都市伝説は事実無根の大間違いと気づき、ガッカリしたことと思います。

これは個人の学力差なのか、それとも社会的理由なのか。

ここでは「インド人=数学が得意」という都市伝説に騙された方に、その背景を説明します。

繰返しになりますが、インド人は数学センスがないです。

私の経験談

私が(炎上覚悟で)そこまで言い切る理由を述べる前に、まずは私の経験範囲を述べておきます。(もし私以上にインド人と深く関わってこられた方がいたら、もっと違う意見があるかもしれないので)

私の両親はインドビジネスで生計を立てており、その道40年のプロです。その父親の事業を継ぐために私は大阪大学でヒンディー語を学び、1年間インドに国費留学もしました。卒業後はインドに5年間駐在勤務し、日系の自動車部品会社のインド進出で、現地法人一人目の社員として活躍しました。インド人には実家で20年間、大学と駐在勤務で10年間の関りがあります。親子ともにインドに関り、ヒンディー語もできて留学と駐在勤務経験がある人はそうはいないと思っています。

そんな私がこの都市伝説のウソに気づいたエピソードを3つ、まずは紹介します。続いてその原因、そして都市伝説の出どころという順に説明をしていきます。

仕事でインドに関わる人はぜひ楽しくお読みください。

特徴1 まず数えらえない

なかなか信じにくいとは思いますが、インド人は数字を数えるのが苦手です。

もし職場に仲良くしているインド人の人がいたら、次の2点を質問してみてください。

質問①:あなたの母語は何語ですか?

質問②:その言葉で1から100まで数えてみてください。

多分どこかでリズムをくずし、数えれなくなります。

これは私の大学時代の経験ですが、大阪大学に国費で留学してきたインド人の学生にこの質問をしてみたところ、実際に彼は母語で1から100まで数えることができませんでした。

彼の名誉のために補足しておくと、彼は稀代の言語エリートでした。インド人スタンダードとして、母語のベンガル語に加え、公用語の英語とヒンディー語の3言語がネイティブレベルで話せます。それに加えて日本語が日本人以上にうまく、万葉古語から和歌と漢文まで完璧に理解できました。言語センスだけではなく、運までいい学生で、手帳を見ると現職当時の小泉首相ととった写真が挟まっていました。

私はそんな彼に自分のヒンディー語の勉強に協力してもらうために、1から100まで数えてくれとお願いしたところ、90番台で挫折してしまったのです。

信じられない話かもしれませんが、ヒンディー語では1から100まで規則性がありません。おそらく、ベンガル語でも同じだったのだと思います。ではどうやって社会を回しているのかというと、英語と掛け算です。

インド人が数字を数えるとき、ある程度まではヒンディー語でも行けますが、途中から必ず英語に切替わります。もしかすると、最初から最後まで英語です。

また、英語を使わない場合は、指(10進法)で数えたり、指の関節(16進法)で数え、それを掛け算と足し算で把握します。

後にも述べますが、「11」を「じゅう いち」と数え、「11月」を「じゅう いち がつ」と数えられる言語や民族は世界的に見ても珍しく、日本人はかなり数学のセンスがいい方なので、インド人のこの状況を素直に理解できません。

特徴2 範囲計算が苦手

これもなかなか信じがたい話ですが、インド人は公差計算が苦手です。

うそと思う人がいたら、インドにある日系企業の採用担当に入社試験の内容を聞いてみるといいです。特に製造業の会社で品質管理部はその傾向が顕著です。

質問① 1±0.3=?

質問② 1+0.3、1-0.1=?

私が働いていたインドの会社では製造業という都合上、品質管理にノギスなどで測定検査をする人が大勢いました。その採用試験に一般知識として算数の問題を出したところ、多くがこの公差計算で間違い、ふるいにかけられていました。これは程度問題なので得な人もいましたが、この程度の算数問題で大多数をふるいにかけられることに驚きです。時間制限どうこうではなく、間違う!という問題です。自動車産業にとって公差は重要です。インドではその検査員の数学センスから疑わないといけないので、つらいです。

特徴3 数式の一行化ができない

インド人は数式の一行化ができません。数式を書くときは「かけ算・わり算」と「たし算・ひき算」を一つの数式の中で混在させて考えることができません。

例えば、答えが(2+3)*(4+6)=50という数式になる問題があったとすると、必ず2+3=5、4+6=10、5*10=50という3つの式にしないと計算できません。

本当に信じがたい話ですが、私が働いていたインドの会社の財務マネージャー(部長)は(2+3)*(4+6)=5*4+6=26だと信じていました。数式の中に()があっても、それはない場合と計算結果は同じと信じていました。間違いを指摘し得ても、エクセルの数式の中で説明するまで、かたくなに計算結果を正しいものとして、35年間生きていました。

彼の名誉のために補足すると、彼は単なる財務マネージャーではなく、公認会計士の資格も持っており、会社秘書役の上級資格も取ろうと勉強するエリートでした。1200人いる社員のうち、私が1人目の社員で、彼は3番目に採用された人でした。会計システムや在庫システムの導入にも深く関わり、システム上の計算を「検算」する立場として、後から来た1197人に社内システムを整備する側でした。

その彼が間違った理解のままでも問題を起こさなかった理由は、絶対に()を数式に入れなかったからです。日本人の感覚からしたら数式を1行化することに美学を感じてしまいますが、インド人の場合、例え数式が何行になろうとも、例え同じ計算を何度することになろうとも、個々の数式が文章として成立することのほうが大切なのです。

インドに赴任した日本人にとって「関税は何%なのか」はすごく気になることですが、このシンプルな質問に対して、シンプルな答えをインド人から得ることはできません。インド人は必ず文章のような数式で答えようとします。これは数式を短く表現しようとする日本人と文章として成立させたいインド人の埋まらない思考方法の差です。

似たような話で、インド人は表の作成や箇条書きをすることが苦手です。どうしても文章として成立させることにこだわり、比較したい要素だけを抽出して視覚的に配置することができません。

後述しますが、インド人は視覚ではなく音で考える人種です。

原因1 ゼロの発見は過去のこと

インド人が数えれない原因は言語の問題です。

日本人には信じがたいですが、ヒンディー語は1から100まで規則性がありません。おそらく、インドの地方言語も同じです。英語で言うと、11はeleven、12はtwelevと1oneや2twoとの関連性がないことと同じです。日本語でも「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」、、、と数えた場合、100までちゃんとリズムよく数えられるかは疑問です。

このように、どこの言語でも原始レベルでは数え方に規則性はなく、言葉の数でしか量の記憶や把握ができませんでした。本来無限である数を言葉や実物依存の限界で有限にしていたのが、古くからある数え方です。日本語もその例外ではありません。有限でしか数えられない組織にとって、例えば100日分と101日分の食料備蓄は同じあり、もめたとしても解決方法を持ちません。数とは無限であり、それを音やモノという有限のものでどう表現するか。この大問題を解決したのが、「インド人 ゼロの発見」なのです。古代サンスクリット語では「ゼロの概念」が存在し、人々は1から9、10~19、20~100、更にその先をすべて規則的に数えることができました。1~10までを数えることさえできれば、そこに「ゼロの概念」=「位取り記数法」を用いることで、無限を理解できました。聖書には「東方の3賢者、星を頼りにベツレヘムに着く」とあり、当時イスラエルから見た東方=イランからインド北部が天文学に優れていたことが分かります。人が暦や永年の循環、宇宙を理解するにはゼロの概念が必要で、言葉や実物依存の数え方から規則的数え方に脱却する必要があります。これを古代インドの人はできていました。

ただ、その過去の栄光は今のヒンディー語にはありません。その名残はあるものの、ヒンディー語の数字は11=「じゅう いち」と数えれるような言語ではなく、「A~Z」を覚えるがごとく、1~100まで不規則になっています。

11を「じゅう いち」と数え、11月を「じゅう いち がつ」と言う日本語は世界的に見てもかなり数学センスがいいです。19世紀に世界共通言語として人工設計されあたエスペラント語でさえ、11月を「じゅう いち がつ」とは数えず、英語で言う「November」的な数え方になっています。更に余談ですが、日本語はカレンダー表記もセンス抜群だと思います。このように、数学センスのいい言語環境下で生きてきた日本人にとって、数えられない事実も理由も理解に難しいものと思います。

原因2 音で考える習慣

では、なぜそもそも数学センス抜群だったサンスクリットがヒンディー語になる過程で時代逆行なことになったのでしょうか?

これは私のかってな考えですが、なまりです。言葉という生き物が広域化し、時代を経つにつれ、それぞれの地域で話しやすい言葉になまっていき、規則性がなくなったものと思います。事実、規則性がゼロではなく、名残はあります。サンスクリット語は今でもインドの知識階級の中で生きている古語ですが、正直発音が難しいです。日常会話で使用頻度が高いものほどなまるというのは事前な流れだと思います。

ここで重要なことは、なまるとは音の勝利であり、なまらないとは「ゼロの勝利」なのです。インドには日本とは比にならないほど方言が多く、また違いがあります。それぞれの地域でなまりながらも交易をおこなう中で、伝わりやすい音=なまるとなり、それは数学センスに満ちた便利さをも払しょくする力がありました。

結果、インド人は音で考える民族を守りぬいたのです。

一方、日本人は目で考える民族です。

音で考えれる民族にとって、数式や公差計算は音で表現されないと意味を持ちません。日本語の契約書では絶対にありえないことですが、インドの契約書では数字の後に必ずアルファベットのフリガナが付きます。顧問契約料110Rsなら、110Rs(Hundred and ten Rs)という感じです。数字でさえ、アルファベット(音声文字)で表現しないと正式な表記とは言えないのがインドです。

公差を「0.9~1.1基準値1.0」と書き、「1±0.1」とは書きたがらないのは印、日の違いです。

関税をCIF価格*#%と書かず、文章で説明しようとするのは同じく印、日の違いです。

両社とも丁寧さを求めると結果に「音と目」の違いが出てしまうのです。

都市伝説化の理由 NASAとラマヌジャン

 

では、「インド人=数学得意」という都市伝説はどこから来たのでしょうか?

一つは上述した「ゼロの発見」かもしれませんが、直接的な理由はNASAとラマヌジャンです。

NASAはアメリカ政府の宇宙開発機関で、数学がこの世で最も求められる世界です。そこで働く職員の36%はインド人です。同様にIT関係でもインド人人口は多く、Googleに至っては社長はインド人です。このように、数学センスが求められる第一線で多くのインド人が活躍しているのが都市伝説のもとと思われます。単にアメリカで幅を利かせているとうだけではなく、電波・衛星・ネットを駆使してインドとアメリカで24時間体制で地球を見ているので、規模が違うと思います。

ラマヌジャンとは1887年から1920年に生きたインド出身の天才数学者です。彼は当時世界最高峰だった大英帝国ケンブリッジ大学の教授に発見され、その才能を表舞台に出しました。毎日のように新しい定理や数式をひらめき、それを証明することなくどんどんノートに残しました。彼にとってはひらめきは「女神のお告げ」であり、天からの声だったので証明しないまま、その多くを後世に宿題として残しました。脈絡なしで答えだけ残す彼の業とその数ゆえに、ケンブリッジ大学の最大の発見はラマヌジャンの発見とまで称されました。その天才さゆえに、インド人=数学得意という都市伝説になったと思います。