インド タタ財閥の総帥死去 去りし日の経済界の2大巨星が残した戦前のシーレーン

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近代資本主義の父と称される渋沢栄一が新札になった今年、インドではタタ財閥の総帥ラタンタタが死去しました。享年86歳。彼は拝火教の伝統に則り鳥葬され、近く天へと召されます。一見日本では縁遠いラタンタタですが、外国人ビジネスマンへ与えられる最高叙勲である「旭日大綬章」を天皇陛下から授与されています。(内閣府発表

ここでは彼の一族が日本に与えた功績と共に、今に至る「実は古くて深い」日印経済交流の歴史を紹介します。

本日の記事

  1. 経済界の2大巨星 人物紹介
  2. 互いに求めたもの
  3. 交易を公益とした思想の共鳴
  4. 大英帝国の制海権に奇跡の一本筋

想定読者

インドに関わる人。

この記事からわかること

タタ一族の日本への貢献と「実は古くて深い」日印交流の歴史が分かります。

この記事を書いているなぎささんは

14年前に書いた大学の卒論が日経新聞に掲載され、有頂天になって当時の書き直しをしています。

今回の記事はその抜粋とともに、ラタンタタ氏への弔辞になればと思っています。

経済界の2大巨星 人物紹介

両者とも現存する一流上場企業を多数生み出した功績を持ちます。

渋沢栄一

今年から一万円札の表紙になった人です。

近代資本主義の父と称され、生涯約500の会社設立に関わりました。その中には日本銀行や東京証券取引所を始め、現存する超一流上場企業が多数あります。特徴は同時期に名を上げた三菱・三井などの財閥とは違い、自身の名をどこにも冠することはなく、私益よりも公益を追い求めたことです。明治天皇から国政に加わるようにとのお言葉もありましたが、官尊民卑の打破を胸に生涯民間人として公益に努めました。

ここから先は彼が創立した大阪紡績(現:東洋紡)と共同運輸会社(現:日本郵船)の物語です。

タタ一族

イランからインドに移民した拝火教徒の末裔です。少数民族ながらもそのモラルと信頼の高さからインド最大財閥であり、インドのありとあらゆる業種で活躍しています。どんな人でもインドにいて、その名を見ない日はないでしょう。

今日死去されたラタンタタは財界人にして、人をとても大切にする人でした。かつての宗主国イギリスのシンボルマークだった高級車ジャガーが経営危機に陥ると、その買収を買って出ただけではなく、一人も解雇しない経営再建を目指しました。これと全く同時期に「10万円の新車」をコンセプトに TATA NANOを販売しましたが、この動機はバイクに6人のりをして危険な生活を強いられる女性子供を救うためでした。

ここから先は彼の曾祖父ジェムシェトジータタを財閥の祖するタタ一族との交流物語です。

互いに求めたもの

駐在員としてインドに行くと、あたかも自分が会社を背負ってその場に初めて来た人だと改まることがあります。

臆することなかれ。日印の交流はもっと古く、そして太いのです。

世界の基幹産業は繊維業

日本が開国し殖産興業の名の下産業革命をしようとしたとき、意識したのは英国のランカシャーに始まる繊維産業でした。当時の世界は繊維業が基幹産業。英国はアフリカからアメリカに黒人奴隷を連れ出し、アメリカのプランテーションから綿花を栽培して自国に持ち帰り、それを軍服含む衣服にして世界中に売っていました。

日本はインドに綿花を求めた

渋沢栄一が手記に印すに、「彼が大阪紡績の創立を思い立ったころ(1882年)、日本の紡績業はお婆さんや女の子が家庭内で糸を紡ぐ程度のものであり、産業革命で機械化された英国製品に国内市場が駆逐されつつあった。それに憂いた農務省は英国から最新の紡績機械を購入し、有志の民間企業に貸出をした。」とあります。

渋沢が民間企業1番手として紡績会社(現:東洋紡)を作ると、何十という紡績業が後に続きました。今でもある日清紡、鐘紡、東洋紡。織機なら豊田自動織機製作所(現:トヨタ自動車の祖業)、鈴木自動織機製作所(現:スズキ自動車)。綿花の原料輸入なら三井物産、東洋綿花(現:トヨタ通商の傘下)、日本綿花(現:双日)、江商(現:兼松)など。日本を代表する老舗上場企業はこのころに繊維業を祖業に誕生しました。

彼らにとって資源の奪い合いともいえる重要物資が綿花でした。国産綿花は直ぐに供給不足となり、ほどなく中国綿花も頭打ちし、インド綿花を買い求めるようになりました。

インドは日本に英国に代わる輸出先を求めた

明治維新は「いっぱろっぱー」で有名な1868年からのことですが、その少し前に地球の裏側ではアメリカで南北戦争(1861~5年)がありました。この間、アメリカからの供給が途絶え、イギリスはインドに綿花の代替え調達を求めました。それに合わせるかの如く、スエズ運河に始まる海運網、インド国内の鉄道網、電信網、国際金融がムンバイ目掛けて投資されました。しかしアメリカの南北戦争が一度終わると、その綿花供給はインドから従来のアメリカへと戻っていき、インドは瞬間的な巨大需要をわずは8年間で失いました。

もちろん宗主国を真似ての産業革命 紡績業の誘致もあって綿花の国内消費はあったものの、世界の工場大英帝国の消費を一人支えていた時代と比べると、需要ない供給だけが残りました。今でもインドは広大ですが、大英帝国インド領は更に広く、そこにある綿花農園は果てしなく広いです。それを見たことがなくても、あふれんばかり綿花を積まれたトラックはインドに行けば誰でも目にします。この行き場がないということです。

そこで現れたのが日本への新規輸出でした。

交易を公益とした思想の共感

ただ、新事業には利害関係者の説得と競合の壁があるものです。

インドのジレンマ

インド国旗に象徴されるよう、またマハトマ・ガンディーが手で糸を引く姿に象徴されるよう、外国産の織物はインドを弱らす敵でした。英国に商売で負け国内産業が疲弊したのと同く、今度は日本が綿花の買付に来たのです。紡績業に手慣れてきたら次は外国製品が入ってきて、結局敵を育てることになるのだと。

後にそのリスクは顕在化するのですが、その悩みと合わせて、タタ財閥の頭には大英帝国という一時の太客に翻弄された広大な綿花農家が頭にありました。

将来の敵を育てることになるが、太客を逃した農家は救いたい。このジレンマでタタは日本を応援することに決めました。

競合は大英帝国の旗本P&O社。ムンバイ・上海・香港間ではとりわけ力を持ち、アヘン戦争の中枢にいて、HSBCの株主としてつい最近まで香港の独自通貨発行権を持っていた大企業です。同社のムンバイ~日本間の海上運賃は17ルピー。タタ財閥の読みではこれがかなり高く、商社が綿花調達をする際の障壁となっていました。そこでタタ財閥から申出があり、日本側で船を2隻用意できれば、タタ財閥で船をもう2隻用意し、合計4隻で定期航路を運営しようと提案しました。

大英帝国の制海権に奇跡の一本筋

ここから先は、いかにして戦前の日印綿花シーレーンができたかの話です。

当時の日本は石炭のエネルギー輸出国でした。一方、経済成長をするためにどうしても必要だった輸入資源が綿花です。現在であれば中東から原油を輸送する国防の最重要シーレーンが、かつてはインドからの綿花だったことをご存じでしょうか。その成立ちです。

大英帝国と制海権をかけた価格勝負

渋沢栄一はタタ財閥からの提案をさっそく日本郵船に持ち掛け説得しました。

ただ、世界のP&O社を相手に新規航路で価格競争をするというのは熾烈な戦いでした。

P&O社は従来の17ルピーの運賃を1.5ルピーに下げる競争を仕掛けてきました。12倍近くある価格差はそのまま国内紡績企業の仕入れ値として比較の対象となり、日本郵船としてはとても立向かえるレベルではありませんでした。そこで渋沢は再度日本の未来のためにと、国内の何十とある紡績会社に一致団結して日本郵船と専属契約するよう説得して回りました。単なる12倍の価格差だけではなく、重量合計で従来の5万俵の総需要に対して、航路維持のために7万俵の定期・定量・高値購入をお願いする契約でした。渋沢の度重なる説得で何十もある国内紡績会社は個社利益を超えて一致団結しました。するとさすがに1.5ルピーは下げすぎとのことで、P&O社の運賃は8ルピーで下げ止まりました。ただ、新規参入の日本郵船にはこれでも安すぎて太刀打ちできず、10ルピーを限界値として悲鳴を上げました。民間部門の交渉代に限界を見た渋沢は政府にかけより、この2ルピーの差額に対して補助金を求めました。かくして『航海奨励法案』が制定され、日本郵船のムンバイ航路は世界のP&O社を相手に遠洋航路を築いたのです。

タタ財閥の方とて、英領インドの立場で宗主国の最大船舶会社に新規参入で戦うのはリスクをともなったと思います。

表では日清戦争 裏では経済進出

ここで注目したいのは、日本郵船のムンバイ航路開設に合わせて、三井物産、横浜正金銀行、領事館が同時進出していることです。しかもそれが日清戦争と同時期ということです。表舞台の日清戦争はでは帝国議会の1回目から開戦後3か月目に至るまで軍事予算が満額で国会承認されることはなく、常に軍費削減圧力と戦っていました。

その一方で、ムンバイ航路には航路保護の法律と助成金が即時履行され、当初の貿易目的を超えて横浜正金銀行と領事館まで同時進出をしています。

一体何が起きていたのでしょうか。

大大大ロビー活動

実は裏では壮絶なロビー活動が行われていました。

メディア戦略

日本郵船のムンバイ航路は当時の軍歌にもなっています。

 

本当はもっと書きたいのですが、続きはまたどこかで。。。

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