祝 ボーナスが初めて100万円を超えた 深々と思い出す人生の恩人と転機

インド経験 徒然

ボーナスが初めて100万円を超えました。これは超うれしい。特に妻には日々のサポートに感謝をする瞬間でした。

人生は明るい。

本日の記事

  1. ボーナス100万円超えが感慨深い訳
  2. 深々と思い出す人生の恩人

この記事からわかること

厳しい時もめげずに人生をまじめに考え、時に年配の助言を大切にすると人生が好転することもあるとわかります。

この記事の想定読者

  • 人生の恩人 故中川愛子先生
  • 過去厳しい時でもめげずに頑張ってきた自分
  • 自分の心の支えとなってくれていた人々

この記事を書いているなぎささんは

2023年2月に某大手電機メーカーに転職しました。(過去の記事
それまでは年収400万円代の夫婦共働きで、貯金はできず、世間の平均年収ではありながらも、世の中厳しいと感じて生きてきました。
ボーナスが100万円超えしたのは、この転職が直接的な理由です。
今これを得て深々と思うのはお金の有難みです。質素倹約、貧乏に強い自分の本性こそが稼いだ100万円よりも真の資産だと思っています。

あと、今年はボーナスがあることと裏腹に、1万人の大リストラがあるので、ぬか喜びはできません。

ボーナス100万円超えが感慨深い訳

まず、これまでのベースラインから段違いの高値となります。

これは嬉しいです。これまではボーナスと言えば30~40万円代でした。これだけを見ても超うれしいです。

支給総額は1,429,004円で、手取りは1,024,156円

1/3も天引きされとるのか!!!と、日本維新の会の政党CMを思い出しますが、それはともかく色々感慨深いです。

感慨深い理由の一つは新卒初任給が100万円だったコンプレックスです。

私は2008年のリーマンショックを経て、100年に一度の就職難といわれる2010年に就職活動をし、東北大震災の直後に新卒入学しました。たぶん、ここ20年?30年?で一番就職に苦労した世代です。

大阪大学のブランドに、インド政府の国費留学、BRICSの注目という3大トロフィーをもってしても、80社以上面接で落ちました。そんな苦労を経てやっと入社できたのがエクセディという自動車部品会社です。

そして、入社早々、試用期間が終わるなり、インドにグループ最大の子会社を作るために、新卒3か月目で一人でインドに赴任しました。ベンチャー企業ではありません。歴代社長は天皇陛下から勲章をもらう名誉あるグループ5万人の大企業です。

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これは社長以外、社内も取引先もインドの州政府も全ての人が私と天に向かって叫んだことばです。

雇われの新卒新入社員なのに、入社3か月目にして、インドバンガロールで子会社設立のために右往左往していました。まずは、事務所兼自宅を賃貸契約し、そこにネットと電話を引き込み、人が来れるようにすること。

で、会社って何? サラリーマン家庭に無縁なこともあり、

業務命令は哲学的でした。

副社長「今すぐ福山君を最速で最長期間インドに送りなさい」

上司 意味不明すぎて、電話を私に渡す

福山 「業務内容はなんでしょうか?」

副社長 「これからインドにグループ最大の製造会社を作る。まずはその会社設立と工場用地の買収してきなさい。」

福山 「どこに、誰と行き、どんな準備をしたらいいですか?」

副社長「インドに、一人で行きなさい。」

福山 (頭がフリーズ)インドって、広いよ・・・

インドの別会社の社長「インドは想定外のことばかりだから、現金を厚めに用意しておきなさい」

→経理部長(帰任時の上司)に異例の現金貸付願いを拒否され、手持ち10万円くらい?でとりあえず出発。

(途中 省略)

何はともあれ事務所兼自宅の職場環境整備が急務であり、個人のクレジットカードでやたらと事務所の備品を買い、本社になぞの経費精算をしました。

海外出張準備金、出張手当、出張旅費、残業代(海外)、休日出勤手当(海外)、事務所備品の建替え・・・

とにかく多くの非課税支給明細が積み上がり、正式採用後の初月給は100万円近くありました。

新卒で100万円。給与で。。。

そして、翌月、給与明細を見ると16とあってので、160万円かーーーー!と思いきや、

手取り給与は16万円でした。その翌月はまた出張旅費精算が重なり70万円近く。

念願の会社員になれたのに、安定給与とは別次元の世界にいました。

ちなみにこの時、同期約80名は私を除いてはみんな1年間の工場実習で和気あいあいとしていました。

その一方、私は本社の副社長に毎日日報を書き、一人インドで土地買収の手続きを調べていました。

当時のスパイシーな日々を書き出すと尽きないのでここで切り上げますが、

要は新卒初月給の100万円がまぶしすぎてずっと人生のコンプレックスでした。

今でも当時と同じやりがいのある仕事の再来はないと思います。給与でもそうだと。

まるで注目の空振りIPO銘柄。

それだけにつらく、先行き不安で、努力のしようもチャンスの到来もないと思っていました。

ただただ、真面目に生き、今日できることを一生懸命してきたという平凡なサラリーマンです。

それだけに、新卒初任給をやっと超えられた喜びは嬉しいです。

深々と思い出す人生の恩人

比較にするベースが全然”平凡なサラリーマン”ではないのですが、その源流は家庭環境と大学時代にありました。

実家は夫婦共働きのヨガ教師

今でこそ女性の副業や一人身の職業としてヨガ教師はワークしていますが、子供3人を育てる男の職業としてこの道を選んだ父を尊敬します。しかも、東京から(悪く言えば都落ちで)大分に移住して。更に、子育ての多感な時期にオーム真理教事件でヨガ業界に未曽有の大不況と社会不安が起きる中。

よくぞ、この職業で、この家庭環境で生きてきたなと。生立ちに奇跡と謎を感じます。

父に言わせれば、貧乏強さだ!というので、これぞ血に染み付いた自分の真の強さだと思います。

また、貧乏に育ったので、奨学金ありき、つまりは連帯保証人と好成績ありきの高校と大学生活でした。

最低限の真面目さと借金への責任感、そして貧乏強さに裏打ちされた将来への楽観さ。

これが私の生立ちであり、強さであり、コンプレックスでもあります。

このコンプレックスを全部”サラブレット”と言い換えてくれた大学生活

大阪大学外国語学部ヒンディー語専攻。

統合前の大阪外国語大学で入学したこともあり、私同様、地方から才能と奨学金で進学してきた人がほとんどでした。(今では大阪の地元民がメイン)

英語好きを全学共通項にして、あとはどれだけインド(専攻地域)と自分の接点を語れるか。

これが外大スピリッツでした。みんな個性的。

ちゃんと子育てができている夫婦共働きのヨガ教師なんて、インド以外では世界的に今でも珍しいです。人生のコンプレックスを一瞬で誇りに変えてくれる学校でした。

「そうだ、まずは20代のころの父親を超えよう!」

入学早々に心にゴングがなり、入学式会場を出てすぐ、「ヨガサークル」を作るために、周囲のサークル勧誘に紛れて、自分の勧誘をしていました。自分で頑張って集めるより、既に集まっている輪の中で注目を奪い、引き抜く方が手っ取り早いという判断です。

いわゆる道場破りの一発目です。

新入生歓迎会に紛れた道場破りをいたるところでやりました。

話題性もあります。実家はヨガのプロ。俺の専攻はヒンディー語。周囲は90%女性。

大ウケして、1年経ったころには100人規模の学内最大サークルになっていました。

父親の生徒数も越し、父が日本で初めて始めたヨガマット販売も、販売数では勝ちました。

中川愛子先生との出会いは道場破り

でも生徒数とヨガマット販売数で勝っても勝てた気になれないのが、「稼ぎ」でした。

ということで、大学最寄りのヨガ教室に道場破りに行きました。

今思うと、若さは怖い。

そして、懐の広さゆえに、完膚なきまでに完全に懐に取り入れれてしまいました。

中川愛子先生の紹介

「ヨガ教室」の日本史を語ると、佐保田鶴治先生がその第一人者です。その前には中村天風先生、同世代には沖直人先生がいます。

佐保田先生はお寺出身の家柄で、大阪(帝国)大学文学部のサンスクリット語名誉教授です。その専門性をもって、ヨガの経典『ヨガスートラ』を翻訳し、更に実践ヨガとしてNHKでヨガ教室の持ち、日本全国に1万人の生徒を持ち、日本ヨーガ禅道院という宗教法人の開祖でした。

ちょっと考え方がインド的ですが、ヨガ+アカデミック+宗教法人の組み合わせはヨガ教室の格付けにおいては最大級の称号です。

中川先生はその佐保田先生の愛弟子であり、免許皆伝の初回グループにいました。

中川先生との間柄

戦前仕込みの人には旧帝国大学で、恩師と学歴が近いというのは興味深いことだったと思います。

それだけでなく、実家の間接的な縁もあり、その世界の有名人が共通の知り合いでした。

とても面白い青年に見えたことでしょう。道場破りの成果ではないですが、授業料を免除にしてもらいました。

中川先生との思いで

佐保田先生の弟子仲間ということで、比叡山延暦寺の大僧正 堀澤祖門 先生に紹介してもらったことがあります。

佐保田先生の凄さは私には伝わりますが、おそらくこのブログの読者には難解です。

ただ、その弟子仲間で比叡山延暦寺のセカンドトップに会えたというのは驚きでした。

叡山学校の校長をされており、校長室で30分ほど会いました。

千日回峰行という日蓮宗の伝説の苦行をされた数少ない人であり、肌艶と頭皮と目力に本当に後光を感じました。

そんな堀澤先生が、今度は中川先生の喜寿祝いに先生の自宅にも来られました。

ヨガ教室の格は古今東西、ヨガ+アカデミック+宗教法人で決まると書きましたが、その日本最高峰を感じた瞬間でした。ヨガは古くは仏教で瑜伽と呼ばれいました。

さて、インド留学を終え帰国したころ。

中川先生からしきりに就職活動を迫られました

これが自分の人生の基礎であり、転機になりました。

思えば、自分も周囲も私はヨガ教師になるものだと思っていました。

学内には100人の生徒>親父の生徒

ヨガマットの販売数>父親の実績

業界最年長者の中川先生にも気に入られ、ヨガ+ヒンディー語+インド留学は+実家の経歴は海外含め超ユニークかつ、ヨガもインドも拡大市場は明確。

何より、大学は自分のコンプレックスを全て「サラブレット」と言い換えてくれるいい環境でした。

中川先生が就職活動をせかす理由

「男の職業ではない」 怒

この言葉には戦前仕込みの愛と筋がありました。

加えて、先生は結婚の寿退社をするまで、東京丸の内の政策投資銀行で働くバリキャリでした。旦那さんは帝人。お父さんは朝日新聞。お住まいは豊中市の高級住宅地。

それでいて、ヨガの世界にくる人は病人を除いて世捨て人が多く、多くの失敗を見てこられました。

中川先生も佐保田先生も治療目的でヨガを始めています。

一方、ヨガ教師を目指す人の大半は行き過ぎた痛い個性。

実家がヨガ教室なので、父を世界でほぼ唯一の例外に、突き抜けれない凡人のイタさは知っていました。

最後に、中川先生と20代若造の格の違い。

内容は如何せん、自分には「先生」と言われる職業に値する人生の深みがないと思い知らされました。

まぁ~~~逆に、これほど血に染み付いたヨガはそう簡単にぬぐいされるものではなく、人生長しと、待っていてくれるだろう

 

あのとき、

心地いい大学を卒業すること

ヨガ教師にはならないこと

就職活動をすること

この選択をした道の先に今があり、今日のボーナスがありお金の有難みを感じています。

 

中川先生はコロナ禍に亡くなりましたが、是非今の姿を見せたかったです。