恩師 中川愛子先生の逝去を知り 寂しさと思い出で胸が張り裂けそうです

徒然

人は人との出会いで変わります。恩師の逝去を知り、今、寂しさと思い出で胸が張り裂けそうです。

  • なぎささんはあれほど本気に目指していたヨガの道をなぜ辞めたのか
  • なぜサラリーマンの道を選んだのか
  • 今の人生に幸せなのか

恩師への感謝を込めて、その出会いから自分の人生がどうかわったかを語ります。

本日の記事

  1. 恩師 中川愛子先生が1月16日に逝去しました
  2. 中川愛子先生の紹介
  3. 恩師との出会いと思い出
  4. ヨガの道を辞め、サラリーマンの道を選んだ理由
  5. 恩師の逝去を知り今思うこと

この記事からわかること

人は人との出会いで成長することが分かります。

どんな資格や勉強や行動も、人との出会いに比べたら小さな変化です。人は他の人と交わることで、全く予想しなかった方向に大きく進みます。

この記事を書いているなぎささんは

20歳のときに中川愛子先生に出会いました。

当時の私は本気でヨガのプロになることを考えていました。大学ではヨガサークルを作り、生徒は100名近くいました。専門はヒンディー語を勉強し、長期休暇ではインドやアメリカに行き、ヨガの世界に浸っていました。実家がヨガ教室で、長男として家業を継ぎたいと心のどこかで思っていました。教える人数が増えるに従い、日々の学びの場を求めて、身近なヨガ教室に行動範囲を広げたのが出会いのきっかけです。

とても野心家だったので、あわよくば「のっとろう!」というあくどい根性がありました。それほど本気で考えていたヨガの道を、深めてくれたのも、辞めさせてくれたのも、中川先生との出会いです。

1.恩師 中川愛子先生が1月16日に逝去しました

人は人との出会いによって、大きく成長します。このことを実体験として最も教えてくれた中川先生は、先日1月16日に天に召されました。

生前、よく恩師佐保田鶴治先生との出会いと思い出を語られていました。私が先生に対して思うこと以上を、先生は実体験として、佐保田先生との出会いによって、人生の好転を感じていました。ヨガとはサンスクリット語で「結合」を意味します。先代お二人の人生にもそれを感じます。コロナ禍で集まることが難しい状況ではありますが、ご遺族の方にご香典くらいお渡しできればと思っています。

こころより、ご冥福をお祈りいたします。

2.中川愛子先生の紹介

先生自身が書かれた経歴は、こちらのHPからご確認できます。余談ですが、学生時代の私の写真も潜んでいます。

✓日本政策投資銀行(丸の内ガール)という経歴

独身時代は日本政策投資銀行で働いていたそうです。いわゆる「丸の内ガール」です。

今でこそ、ヨガをする人には真人間が多いですが、この業界で育った私にしてみれば稀有な存在です。ヨガが職業となりえたのはつい最近の出来事です。それまでは今の仮想通貨と同じく、新しすぎて逆に怪しい職業でした。ヨガをする人の多くはヒッピーブームや独りよがりの人が多かったです。くわえて、オーム真理教の事件で、本当に怪しい職業に転落した過去もあります。その世界において、「丸の内ガール」の存在は本当に貴重でした。

大変立派なご家族もいます。結婚に教育、子育て。個性派そろいのヨガ業界において、先生みたいに社会を大切にする堅実でまじめな人は珍しいです。

✓佐保田鶴治先生の教導第一期生

中川先生にとって、佐保田先生との出会いは人生を大きく変える出来事でした。

ヨガを始める前の先生は、お産で後遺症を抱える身体障害者でした。それがヨガをすることで体調がみるみる回復したそうです。ヨガの教室は京都伏見区にある「日本ヨーガ禅道院」。電車を6回乗り継いで毎週通ったとその意気込みをよく話していました。

佐保田先生は日本にヨガを持ちこんだ第一世代です。本職は大阪大学でインド哲学の教授です。中川先生と同じく、体が弱かったのでヨガをはじめましたそうです。他の人とは違い、サンスクリット語の専門家として、「ヨーガスートラ」の原本翻訳をし、合わせて体操としてのヨガの普及に努めました。全盛期は1万人を超す生徒さんがいたそうで、日本でヨガ業界を生み出した人と言っても過言ではありません。

その佐保田先生の教師免許を持つ、第一期生が中川先生です。

✓NHKを通してヨガを職業にした第1世代

ヨガは日本で広く認知されたのは、NHKの教育TVのおかげです。この時の佐保田先生はとても忙しかったと思います。数いるヨガ教師の中でも、「第一期生」にして、「車を運転でき」て、「真人間」の中川先生は大きな助けだったと思います。また、今とは違い、個性派そろいの男が多い世界だったので、女性であることは特殊だったと思います。美容健康ではなく、治療。アメリカ影響ではなく、インド直輸入。女性より、個性派男子が輝く世界。これが当時のヨガ業界でした。

3.恩師との出会いと思い出

私と中川先生との思い出を紹介します。他の人の話もぜひ聞いてみたいです。故人の記憶に、思い出の価値をすごく感じています。

✓中川先生との出会い

出会いのきっかけは私の野心からでした。

当時の私はヨガ教師を目指していたので、プロの近くに身をおこうと、学びの場を求めていました。隙あらば、そのまま独立という野心もありました。20歳の男子が考える野心など、老舗のプロにしてみれば可愛いものだと思います。そんな私の考えも理解しつつ、先生はお付き合いくださいました。生前、秘密にするよう言われていましたが、実は授業料を免除にしてもらっていました。佐保田先生の後輩という立場も、何かのご縁だったと思います。

無償のヨガサークルからプロに脱皮を目指すには、これ以上ないいい環境でした。

✓インドからヨガの先生をお招きして

両親がヨガ教師の私にとって、プロと趣味の境目は明確でした。インドとの距離です。この問題を解決するため、昼はヒンディー語を勉強し、長期休暇はインドに行きました。中川先生もヨガならインド!という理解をお持ちでしたので、一度コラボをしてみました。父が毎年恒例行事として呼んでいるヨガの先生に、中川先生と組んで大阪公演を企画しました。「ヨガニドラ」という睡眠療法を紹介できたのが成果です。後日「睡眠不足をヨガで治す」という記事に書きます。

✓インド旅行を企画して

ヨガを古くからしている人にとって、生徒さんとのインド旅行は憧れです。佐保田先生がインド・リシケシで1か月間修行されたのを、中川先生はよく話していました。1か月は無理でも、10日間程度なら、と一緒に旅行企画を立てました。生憎私は学業で日程が合いませんでしたが、最後のインド旅行をお届けできたのは思い出深いです。先生は、「佐保田先生の直弟子」として、ヒマラヤで有名なヨガの先生から祝福のオレンジの衣をもらいました。その時の写真を、老人ホームに入っても、ベット脇に飾っていたのを覚えています。本当に思い出深い経験です。

中川先生自身の体験談はこちらのHPから見れます。

4.ヨガを辞め、サラリーマンの道を選んだ理由

100の理由より、1つの激しいきっかけが原因で人生は変わります。私が就職活動を始めた理由は大小色々ありますが、懐に常に体温もって感じ続けた動機は中川先生の後押しです。

✓就職活動を勧められ、周囲の社長を紹介してもらう

私が就職活動を始めたとき、周囲はざわつきました。(たぶん)

理想は語るも、稼げていなかった。ヨガ「教師」というには、人生経験がなかった。両親からも反対があった。色々理由はありますが、中川先生が心配していたというのが、正直な理由です。人を怒らせても大して気にしない性格の私ですが、中川先生を心配させることに、すごく罪悪感がありました。先生も言うだけではなく、どんどん周囲の社長を紹介してくれました。その場で何かが決まるような状況設定ではないにせよ、ぬくもりのある圧力でした。

この時、小さいころから抱えていた「ヨガ=怪しい」と「ヨガ=憧れ」が激しく戦いました。ネクタイを締め、清々しく出勤するサラリーマンへのあこがれ。読書に没頭し、その日のヨガ教室をさぼる父。でも趣味を仕事にする最高の生き方。私の中で隠していた大きな理想論の違いがぶつかり合いました。

そんなときに、中川先生は本当に相談できる人でした。丸の内ガールを経験したヨガ教師を他に私は知りません。その人から「ダメ絶対!」と言われれば、あきらめが付きました。「ダメ」というのは、あくまで20代の阪大生に対するものいいです。男にはもっと稼ぐべき正しく、大きな世界があるというのが理由でした。戦争経験者の意気込みも感じました。

✓比叡山の大僧正 堀澤租門氏を紹介いただく

それでいて、ヨガの道を誰よりも導いてくれました。

その道の老舗になると、思わぬ古いご縁もあるようです。比叡山のNo2にあたる堀澤租門大僧正を紹介いただき、なじみの社長仲間と訪問しました。比叡山といえば日本仏教界のTOPですが、実は仏教大学として最古の歴史も持ち合わせています。外大でヨガ教師を目指す私にとって、比叡山の仏教大学は、学校の専門性でも、職業への覚悟でも、別次元でした。堀澤租門先生はそこの校長であり、中川先生とは同じ佐保田先生の弟子仲間でした。生きる世界の違いに、ヨガを深めるとともに、本職はサラリーマンだと腹を決めました。

✓結婚前にあいさつ デートは異例の老人ホーム

先生のおかげもあって、私は無事就職ができ、異例の速さで海外赴任が決まりました。帰国するのは多くても1年に5日程度。その貴重な時間を使って、私は当時の彼女(今の妻)を連れて、結婚前にあいさつに行きました。

この時代の人は「恋愛話」が何より好きです。すごくよろこんでくれました。そして何より、老人ホームをデートの場所に選ぶことに、実家以上の緊張感と違和感がありました。こんな男はいないと思います。因みに彼女は学生でした。老いや死なんて、一番意識しない年頃の二人です。ここをデート場所に決めた理由は、私の恩人を紹介したかったことと、先生の生存確認。合わせて、ヨガ教師という私が目指した世界に対する理解でした。日本には引退したヨガ教師がまだいません。今後のキャリア意識もありました。

老人ホームでの先生はヨガではなく、人生の先生でした。老い方ほど、生き方を考えるものはありません。単なる富や健康だけではなく、「寄り添う人がいる」ことの幸せを考えさせられました。老人ホームにはどこよりも多くの人生があります。

何度か訪問しましたが、コロナが引いたらと思っている内に、先生は他界しました。

5.恩師の逝去を知り今思うこと

生前、先生は佐保田先の葬式の話をよくしていました。インダス川とガンジス川とコモリン岬とスリランカの4か所で葬式を上げました。ヨガに身をささげたサンスクリット学者として、これ以上のことはないと思います。写真を見せてもらうと、中川先生は佐保田先生の骨壺をもって移動していました。葬儀も、完璧なベーダ神話を実現したような感じでした。大学教授に話したところ、学術的に価値があると、授業で扱てもらいました。ハーバード大学出身のサンスクリット学者でしたが、実写資料にとても驚いていました。

生前、中川先生には、インドでも供養したいと、自分の夢を告げていました。コロナで海外渡航どころではないですが、時が許せば、ヒマラヤで供養したいです。お骨は恐らく、生前の遺言通り、一心寺で仏像と化していると思うので、まずはお参りに行こうと思います。

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