常識を覆す日印交流史#1 日清戦争の影にインドあり ムンバイ航路の成功体験

インド経験 電子出版

大学の後輩にユーチューバーがおり、なんの偶然か、私の卒論を取り上げてもらいました。(ポジティブ解釈)

このインドパワーにあやかって、関連記事を書いてみました。

本日の記事

  1. 常識を覆す日印交流史 日清戦争の影にインドあり
  2. 時代背景からの解釈
  3. 出版物の構成からの解釈
  4. 『孟買(ムンバイ)航路』の歌詞解釈
  5. 私の解釈

この記事から分かること

表題通り、あなたの常識を覆します!!!

日印交流がどれほど日本にとって大切であったか、その重要性がわかります。

この記事を書いている私は

大学時代の卒論で「明治期の日印交流史」を書きました。

今回、超有名ユーチューバーのマヨさんがその関連動画を出しており、後編を編集中とのことで、なぜか私の卒論が彼女の手元にあることを知りました。

過去の情熱に、再び火が着き始めています。。。

この記事の対象読者

マヨさんのファン。みほ先輩のファン。インド好きの日本人。インドと商売がある人。歴史好きの人。

マヨさんファンのために

まずは本題に入る前に、彼女の動画を紹介します。

ことのついでに私の卒論もシェア

日印交流の開拓者達 ~1891年から1908年まで~

このリンクから、私が12年前に書いた卒論が読めます。

いつか出版したい。。。

常識を覆す日印交流史 日清戦争の影にインド交易あり

さて、冗談抜きで、本当に読者皆さんの「常識」を覆してみたいと思います!!!

常識を覆す!

  • 古代から現代に至るまで、日本人の最大の関心ごとは常に中国。
  • そのクライマックスは、間違いなく日清戦争。特に開戦決定の1894年7月。
  • こんなこと、日本国民、全てが同意のはず・・・

でも、違う事実があるかもしれません。。。というのが、この記事です。

マジで、「常識」を覆します!

驚きの史実 開戦時に軍人に配られた軍歌集にはなぜかインド?

これはどこぞのマニアコレクションではありません。

国立国会図書館に堂々と保存され、デジタル公開されている一般書物です。

「孟買航路」と書いて「ムンバイ航路」と読みます。

今から日清戦争へと船出する軍人に向けて、

「必読」

「軍歌」

「ムンバイ航路」

これは天竺への切符か?と思わせるような意味不明な書物です。

驚きの出版時期とその内容。。。

はっきりと事実をお伝えしますが、これは日清戦争が始まった1894年7月に発行された書物です。

「常識」からいえば、日本人が日本史上、最も中国を意識した瞬間です。

しかも、なぜ、「軍人」に「必読」、しかも「ムンバイ航路」だったなのでしょうか?

時代背景からの解釈

まずは年表を見ながら、改めて時代の流れを考えてみましょう。

  • 1864年 明治維新           (この翌年にマハトマ・ガンジーが生まれる)
  • 1871年 岩倉使節団が欧米を訪問    (帰路にスリランカにて補給)
  • 1889年 印綿業視察団がムンバイに行く (大久保利通、渋沢栄一、タタ財閥が立役者)
  • 1893年 日本郵船がムンバイ航路を開設 (日本郵船発の遠洋航路)
  • 1893年 軍艦吉野が英国で竣工     (英国からの帰路でムンバイに寄港)
  • 1894年7月16日 日英通商航海条約締結  大英帝国の不参戦を確認
  • 1894年7月23日 『軍人学生必読進撃新軍歌』(ムンバイ航路)印刷
  • 1894年7月25日 日清戦争開戦
  • 1894年7月27日 『軍人学生必読進撃新軍歌』(ムンバイ航路)発行
  • 同年 ムンバイ総領事館、横浜正金銀行ムンバイ支店、三井物産ムンバイ出張所が開設

日本が国家の浮沈をかけて日清戦争に船出する傍ら、

軍も、外務省も、国策銀行も大手商社もインドを目指していたことになります。

理由は大衆理解

軍事、外交、金融、政治。多くの面で、インドは急に注目を浴びました。

理由は複数あったと思いますが、冒頭の軍歌『ムンバイ航路』に限っては大衆理解が目的でした。

まず、当時の日本人には「侵略戦争」の成功体験がありませんでした。

成功体験がなく、肌で感じる外国からの侵略リスクもありませんでした。これが庶民感情です。

このままでは戦争ができないので、外に出ていく勇気・動機付けに持ち出されたのが、「インド進出の成功体験」であり、「ムンバイ航路」でした。

ムンバイ航路とは

日本郵船が1893年に開設した初めての外洋航路です。

韓国や中国、ロシアへの船便はありましたが、それより遠くは初めてでした。ここには距離(=技術)としての成功がありました。

その上で、ムンバイ航路には「綿花」を安く買ってくるという産業的な理由付けもありました。

当時、綿花は産業界の「原油」であり、この綿花あってこその繊維産業であり、産業革命でした。国内でも綿は取れますが、産業革命にはより良い綿花を、より大量に購入する必要があり、英国同様、日本はインドを目指しました。インド ムンバイへの航路は欧米列強との競争であり、後発参入の日本郵船には色々困難がありました。それをなんとか実現したのが、日本郵船のムンバイ航路でした。

この航路の延長にはスエズ運河やパリ、ロンドンもあり、経済的な重要性もありました。

インド進出の成功を強調した日清戦争

欧米列強と熾烈な路線競争に勝ち、自力でムンバイに行けるようになったことは日本人としての誇りでした。

ムンバイは当時アジアで一番栄えていた大英帝国の商都です。

これは例え話ですが、

田舎の中学生が自転車で遠くの都会まで行き、都会のバイク集団に何かで勝ったとします。その成功体験は彼の目を輝かせ、隣町くらいへのかっぱ♪とイキるようになります。なんなら、徒党を組んで、行動範囲を広げるかもしれません。その結果、都会と田舎でこれまでなかった物の行き来が始まったとしましょう。これは田舎のヤンキー伝説になること間違いなしです。

ヤンキー伝説=軍歌

ムンバイ航路という成功体験はちょうど同じ効果を兵士に与えました。

侵略戦争をしたことがない日本人にとって、経済戦争とはいえ、より遠くで、より強いモノ(欧米列強)と戦った成功体験は国民感情を高めました。しかも、過去の話ではなく、つい1年前の話であり、その効果が自分の軍服に化けて出てきたという話です。

こうしてできた軍服と軍歌をお上から頂戴し、大日本帝国海軍は日清戦争に駆り出していきました。

行き先がインドか中国か、そんなことより、インドでの成功体験と日本人であることが大切でした。

これが軍隊としての群衆真理です。

日清戦争をした支えしたインド感情が消えた理由

では、なぜこの美談が無名なのか。

それは日露戦争の勝利が圧倒的すぎたことと、太平洋戦争の敗戦で自信をなくしたからでしょう。

今となっては船便一つ小さなことですが、当時の日本人にしてみれば、大きな一歩だったことでしょう。

出版物の構成からの解釈

さて、インド好きという立場から、インドばかりフォーカスしました。

出版物の性格を見ることで、見方を変えてみます。

出版背景

  • 『軍人学生必読進撃新軍歌』
  • 閲覧URL https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/855411
  • 著者 半渓散史
  • 出版社 魁真楼
  • 印刷日 1894年7月23日 (開戦2日前)
  • 発行日 1894年7月27日 (開戦2日後)

「軍人」「必読」「軍歌」発行日=開戦前後。

ここら辺がやっぱり目立ちます。

目次

ここでネタバレしますが、別にインド一点フォーカスの軍歌集ではありません。

ちゃんと秀吉の朝鮮出兵や戦国武士道、直近の外交条約、北海道の開拓など、バランスよく書かれています。

ただ、インドオタクを補足すると、福島中佐という人は1人でユーラシア大陸を横断した勇者で、インドにも行っています。

シベリア鉄道、ロシア南下に怯えるトルコとかインド、戦争前の中国事情を直接とってきた一流スパイです。この人物を入れていることは流石と思います。

朝鮮行/9 曽我復讐/57
朝鮮征討/10 北条時宗/58
支那行/12 渡辺綱/61
支那征討一/13 毛利元就/63
支那征討二/15 文覚上人/65
支那征討三/16 三浦義明/66
朝鮮史/17 首級/68
朝鮮史二/19 鳥居元忠戦死/71
朝鮮史三/23 太閤遺言/75
朝鮮史四/25 大坂落城/78
出兵/28 大坂落城二/83
戦死/30 春の歌/86
兵士/31 夏の歌/87
紀念碑/32 秋の歌/87
東学党/34 冬の歌/88
天津条約/37 勉学の歌/88
支那旗兵隊/39 立身いろは新歌/90
東洋の活劇/40 国会の歌/92
東洋の活劇/44 福島中佐単騎遠征/96
天徳寺琵琶を聞/47 福島中佐歓迎の歌/98
鳥居強右衛門勝高/49 郡司大尉/100
義経弓流/50 北海道開拓/102
義平/52 青山国手/106
義朝/53 孟買航路/108
頼朝/54
巴御前/55

『孟買(ムンバイ)航路』の歌詞解釈

その上で、『ムンバイ航路』の歌詞を見てみましょう。

従来英国彼阿の 汽船に依りて我国へ

綿花輸入をなしたれど その運賃の高きゆへ

値下げ請求なしたれど さらに應せぬ所より

同業人は協議なし 郵船會社に相談し

其航海を頼みたり 同會社には承諾し

少しばかりの損得わ 國の為めゆへ顧みず

多年望みし航海の 航路拡張目的を

実行せんと憤発し 遂に去年の冬となり

神戸孟買その間に 定期航海初めたり

日本郵船會社には 彼阿會社に比較して

運賃七分値下げせり 紡績業者それがため

少なからざる利を得たり されど郵船會社には

その運賃の康きため 多少の損を蒙むれり

同社の損はともかくも 中絶するに至りなば

航海兼の消長に 関係すべき大事なり

紡績會社も憂慮なし 郵船會社と相計り

彼阿會社を排斥し 此難局にあたりたる

その意わ質に嘉すべし 以後の経緯難儀にて

若しも永続なし難き 場合とならば國民の

傍観すべき時ならず 折角得たる航海の

権利をまたも彼阿會社に とらるるようになりゆかば

我が帝國の恥辱なり 吾が國民の恥辱なり

愛國心のあるものは 保護ありたき事にこそ

七五調の美しい日本語であり、現代にも通じそうな「経済戦争」を説いています。

物理的な戦争はやめ、交易で人と人が繋がる時代になって欲しいものです。

個人的には、金額や社名など、かなり具体的なものを書いていることが驚きです。

私の解釈

日本は歴史的に常に中国を重視してきましたが、そのクライマックスともいえる日清戦争の最中、

なぜか急遽インドに注目が集まりました。

軍人も、商売人も、外交官も、銀行も。

これは、日清戦争の開戦前年にできた悲願のムンバイ航路の影響です。ムンバイ航路は欧米列強との経済戦争の勝利であり、技術力、経済力、そして勇気の象徴として日清戦争を盛り上げました。

兵士には『ムンバイ航路』の軍歌と共に、おそらくインド綿でできた軍服が支給されました。

インド洋まで行けたのなら、洋上利権で欧米列強に勝ったのなら、日清戦争くらい!と思ったに違いありません。

戦争はよくないですが、交易で国益をなすというのは現代にも通じる立派な価値観です。

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