常識を覆す日印交流史#2 日本にとって重要な国ランキング インドはどこ?

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直前記事の続きです。

日本はなぜ?日清戦争の最中、インド進出を目指したのでしょうか?

  • 古代から現代に至るまで、日本人の最大の関心ごとは常に中国。
  • そのクライマックスは、間違いなく日清戦争。特に開戦決定の1894年7月。
  • 絶対そうだし、それ、常識!

と言いたいところですが、実際に当時の日本人のとった行動は真逆で、インドばかり見ていました。

一体なぜ?

本題に入る前に、まずは常識を振り返ってみましょう。

本日の記事 日本にとって重要な国ランキング

  1. 岩倉使節団(1871〜3年)
  2. 在外公館の設立分布 (1900年まで)
  3. 航路の開設時期 (1900年まで)
  4. 貿易統計 誰から買い、誰に売っていたか
  5. では、日本は日清戦争の最中なぜインドを?

この記事から分かること

日本人がどれだけアメリカと中国を重視してきたかが分かります。

今回はあえての「常識」のおさらいをします。

その上で、1894年日清戦争の勃発と共にインドを目指した日本人の「奇行」を理解しましょう。

岩倉使節団(1871〜3年)

岩倉使節団は、日本史上最も有名かつ、大規模、長期間の外交使節団です。

多分、これに匹敵するものは前にも後にも現れないでしょう。

当時の政府首脳は誰を重視し、また、インドをどう見ていたのでしょうか?

岩倉使節団とは

明治政府が目指すべき「国家モデル」を見定めるために、派遣された外交使節団です。

岩倉具視特命全権大使を代表にして、使節46名、随員18名、留学生43名の計108名で構成されました。

1871年12月23日に横浜港を出発し、1873年9月13日に戻るまでの間、世界14カ国を外遊し、日数にして631日間も国の主要メンバーが海外に出かけました。

これだけ長期間、国のブレーンが国外に出るのは歴史的に見ても異例です。亡命政府を作る時くらいでしょうか。

訪問ルート

滞在日数に見る重要国ランキング

アメリカ一辺倒の外交観が分かります。

さすがアメリカからの外圧で開国しただけのことはあります。

アメリカが最重要国というのは今にも生きる「国家観」です。

滞在日数 %
米国 205 32%
英国 122 19%
仏国 69 11%
ドイツ 37 6%
イタリア 30 5%
スイス 23 4%
太平洋 22 3%
ロシア 17 3%
オーストラリア 15 2%
インド洋 14 2%
中国 10 2%
オランダ 10 2%
日本 9 1%
大西洋 9 1%
ブリュッセル 8 1%
スウェーデン 8 1%
スエズ運河 7 1%
ベトナム 5 1%
デンマーク 5 1%
スリランカ 4 1%
シンガポール 2 0%
Grand Total 631 100%

出典:国立公文書館 アジア歴史資料センター

インドの立ち位置

インドの重要性はゼロです。

あえていうなら、大英帝国インド領として、スリランカに補給目的で4日間滞在しています。

重要性をどうしても書くならば、「補給基地」であり、それはインドではなく、スリランカです。

在外公館の設立分布 (1900年まで)

在外公館は邦人保護を第一の目的にした政府機関です。

その傍ら、貿易の促進や駐在武官による軍事情報の取得にも活躍します。

在外公館の設立分布を見ることで、在外邦人の規模と貿易、軍事上の重要性を見てみましょう。

在外公館の設立分布

中国は赤色韓国は緑色、その他がオレンジ色で表示しています。)

開設 地域 外公館 格付け
1870 清国 上海 上海 総領事館
1872 清国 香港 香港 総領事館
1872 清国 香港 福州 領事館
1873 清国 北京 清国 公使館
1874 朝鮮 朝鮮 釜山 総領事館
1874 清国 香港 厦門 領事館
1875 樺太 樺太 コルサコフ 領事館
1875 清国 北京 天津 総領事館
1876 清国 北京 牛荘 領事館
1876 清国 北京 芝罘 領事館
1876 沿海州 沿海州 ウラジオストク 総領事館
1879 シンガポール シンガポール シンガポール 総領事館
1880 朝鮮 朝鮮 元山 領事館
1880 朝鮮 朝鮮 京城 公使館
1882 朝鮮 朝鮮 仁川 領事館
1885 清国 上海 漢口 総領事館
1887 タイ タイ シャム 公使館
1888 フィリピン フィリピン マニラ 総領事館
1888 清国 香港 広東 総領事館
1894 インド インド ムンバイ 領事館
1896 清国 上海 杭州 領事館
1896 清国 重慶 重慶 領事館
1896 清国 重慶 沙市 領事館
1896 清国 上海 蘇州 領事館
1897 朝鮮 朝鮮 鎮南浦 領事館
1897 朝鮮 朝鮮 木浦 領事館
1899 朝鮮 朝鮮 平壌分館 分館

出典:国立公文書館 アジア歴史資料センター

中国一辺倒の外交が一目瞭然

説明不要なくらい、中国ばかりです。

数の多さでも、格付けでも、中国一辺倒の世界観が分かります。

この数と規模に応じて、在留邦人がおり、経済的重要性と軍事的情報の必要性があったということです。

アヘン戦争の脅威で開国しただけのことはあります。

ロシアの南下脅威や征韓論も後押ししたと思います。

その時代の世界観としては当たり前の常識であり、今にも通じることかもしれません。

インドの立ち位置は

かなり低いです。

シンガポールやタイ、フィリピンにも在外公館はありますが、時期も遅く、格付けも最下位位です。

大陸からの侵略脅威と欧米列強との不平等条約の改正、この二つが当時の日本人の世界観であり、インドは遠い国でした。

今にも通じることかもしれません。

航路の開設時期 (1900年まで)

船の行き来を見ることで、人的交流や貿易量を推計することができます。

貿易も人的交流も、まずは航路があって、物理的に行けることが大前提です。

特に島国の日本においては、「航路=貿易+人的交流」です。「自力!」はありえません。

航路の開設時期

中国は赤色韓国は緑色、その他がオレンジ色で表示しています。

出典:国立公文書館 アジア歴史資料センター

神戸始発の航路

開設 神戸始発の航路
1873 神戸-長崎-上海
1876 神戸-芝罘-天津-牛荘
1880 神戸-下関-長崎-五島列島-対馬-釜山-元山
1881 神戸-釜山-元山ウラジオストク
1882 神戸-香港
1889 神戸-下関-長崎-釜山天津
1889 神戸-下関-長崎-五島列島-ウラジオストク
1889 神戸-長崎-仁川天津
1890 神戸-下関-長崎-福州-厦門マニラ
1891 神戸-牛荘
1893 神戸-門司-基隆
1896 神戸-基隆
1896 神戸-鹿児島-奄美大島-沖縄-基隆
1897 神戸-下関-長崎-鹿児島-沖縄-基隆
1898 神戸-沖縄-高雄
1899 神戸-牛荘
1900 神戸-長崎-釜山-鎮南浦

横浜市発の航路

開設 横浜市発の航路
1864 横浜-上海
1865 横浜-上海
1867 横浜-上海
1869 横浜-香港
1869 横浜-香港
1875 横浜-上海
1879 横浜-香港
1893 横浜-香港シンガポ-ル-ボンベイ
1896 横浜-香港シンガポ-ル-アデレ-ド
1896 横浜-メルボルン
1899 横浜-香港シンガポ-ル-アントワ-プ

長崎始発の航路

開設 長崎始発の航路
1859 長崎-上海
1876 長崎-釜山
1886 長崎-仁川芝罘-天津

上海始発の航路

開設 上海始発の航路
1889 上海-芝罘仁川-釜山-元山ウラジオストク
1896 上海-蘇州
1897 上海-杭州
1898 上海-漢口

香港始発の航路

開設 香港始発の航路
1867 香港–横浜-サンフランシスコ
1895 香港-上海ウラジオストク
1896 香港-横浜-ハワイ-シアトル
1898 香港-横浜-サンフランシスコ
1899 香港-淡水
1900 香港-基隆
1900 香港-福州

中国一辺倒の物流網が見て取れる

中国の重要性が一目瞭然で分かります。

上海に至っては、日本船籍の定期便でありながら、日本に寄港しないものまで複数あります。

外国船籍の船であっても、上海や香港重視が目立ちます。

今も昔も変わらず、貿易や物流、人の移動は中国が優先されていたようです。

インドの立ち位置は

1893年に「横浜-香港–シンガポ-ル-ボンベイ」というのがあります。でも、その1件のみです。

方や、ウラジオストック(ロシア)やシンガポール、サンフランシスコは多くの定期便が開通されています。

インドは「遠方」というくくりの中でも、重要性がそれほどなかったようです。

貿易統計 誰から買い、誰に売っていたか

貿易統計を見ることで、日本の経済力(貿易収支)や、産業構造として誰が大切かが分かります。

貿易収支の推移

まず当時の日本は慢性的な貿易赤字でした。

下記表の37年間のうち、貿易黒字はたった4回だけです。かなり貧しい国だったと言えます。

また、貿易量が急増したのも大きな特徴です。

欧米列強からの貿易要求で開国した日本ですが、そのニーズが本物であったことが分かります。特徴としては1894年の日清戦争前から貿易量が顕著に伸びています。

出典:経済産業省 コラム1 明治期の日本の貿易及び主要輸出産業

貿易収支の内訳

地域別に貿易収支を見ると、日本はインドとイギリスとの貿易赤字を、アメリカとの貿易黒字で埋めようとしていました。

そもそもの開国の理由がアメリカからの貿易要求であったことを思うと、米国貿易で黒字というのは理にかないます。

また、産業革命の真似事をする中で、イギリスから多くの設備や武器を買っていた頃もあり、対英貿易での赤字も倒幕以前から同じ傾向といえるでしょう。

ここで新しい動きがインドとの貿易です。

インドは英国同様、産業革命=繊維産業を機械化する国にとっては重要な綿花供給国でした。ここにおいては、殖産興業を急ぐ日本において、新しい取引相手であり、自分から取りに行く販路であったと思います。

出典:経済産業省 コラム1 明治期の日本の貿易及び主要輸出産業

輸出国と輸出品目

輸出品の内訳を見ると、生糸、茶、石炭及び銅の4品目が輸出総額の60~70%を占めており、重要な外貨獲得源でした。

生糸は1880年代半ばまではフランス、それ以降はアメリカが主要輸出市場でした。

茶は主にアメリカに輸出されました。

石炭は船舶燃料として主に中国、香港、シンガポールへ輸出されていました。

銅は中国、香港を始めヨーロッパに輸出された。

今との違いで言えば、技術がない国の特徴として一次産業品の輸出が目立ちますが、それより、日本が資源大国だったという時代の違いを感じます。

輸入国と輸入品目

当初は安い綿織物が主要輸入品目でしたが、紡績業の発展に合わせて綿織物の国産化が進み、それと反比例する形でインド綿の英国製の紡績機械の輸入が増えました。

完成品としての綿織物を買うか、

産業革命を取り入れることで、原料(インド綿)と機械(英国製紡績機)を買うか、

これは当時の日本が産業革命という進化の中で体感した輸入品目の「入れ替わり」です。

最も重要な国はアメリカと中国

そもそもの開国(貿易)要求とも被りますが、アメリカへの生糸や茶がなければ日本は厳しかったことでしょう。

売りに行かずとも、(こじ開けてでも)買いに来てくれたこと、

その需要が本物で長続きしたこと、

輸出のための輸入(原料)が不要であったこと

対米貿易を一つの事業としてみた場合、これは日本にとってかなりいい収益柱であったと思います。

また、中国貿易に関しては、日清戦争(1894年)後になりますが対米貿易を一気に超えています。

輸出品目が資源であり、同じく輸入不要な事業であったことから、その後を支える重要な収益柱となりました。

次に重要な国は英国とインド

英国製の機械とインド綿がなければ日本の産業革命はできませんでした。

その後の日清、日露戦争といい、事前に国力強化できたことは日本にとっていい結果となりました。しかも、これを対米貿易という違う収益柱で賄えたことはラッキーでした。

英国に関しては、英領インドも含め、結局大英帝国の商売相手として赤字構造になっていたことを考えると、相手の大きさと賢さを感じます。プリンターのように、機械を売り、消耗品も専売し続けるビジネスモデルです。

インドに関しては、英国や米国との貿易と違い、「取りに行くビジネス」として、他とは違う苦戦があったはずです。インド綿の用地買収・栽培は不可能にしても、その後の物流・輸送をどこまで自分でするか、これは日本特有の「商社」という職業ができた背景ともいえるでしょう。(「商社」は日本にしかないビジネスモデルです)

まとめ

在外公館の多さから中国一辺倒の政治・外交観が分かります。

在外公館の数とは、在留邦人の数と経済的・軍事的重要性です。

アヘン戦争の脅威で開国した日本人の世界観がそのまま見て取れる数字です。

 

また、岩倉使節団の滞在日数や貿易国を見ると欧米の重要性が目立ちます。

これも明治政府の成り立ちを考えるとすごく当たり前のことです。

そもそも日本は欧米からの開国圧力=貿易要求によって、江戸時代が終わりました。

欧米は日本と商売をしたかったのです。

その上で、貿易条件を改善するのが江戸幕府からの負の遺産であり、大きな課題でした。

 

貿易では対米貿易を増やしつつ、対英・対印貿易の赤字減らしが国としての改題でした。

 

総合すると、身近には中国を重視し、遠目に欧米列強と不平等条約の交渉をし、インドとは新しい取引という時代でした。

貿易面ではインドの重要性はあるように思います。

 

では、日本は日清戦争の最中なぜインドを?

日清戦争は中国重視という日本人の価値観で言えば、有史以来のクライマックスです。

なぜにインドを目指したのでしょうか?

これは歴史的「奇行」であり、「常識を覆す日印交流史」です。

年表だけここに示し、次の記事に持ち越します。

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