常識を覆す日印交流史#3 日清戦争の主力艦隊 軍艦吉野の奇行 時代に逆行してインドを目指す
直近記事の続きです。
日本はなぜ?日清戦争の最中、インド進出を目指したのでしょうか?
- 古代から現代に至るまで、日本人の最大の関心ごとは常に中国。
- そのクライマックスは、間違いなく日清戦争。特に開戦決定の1894年7月。
- 絶対そうだし、それ、常識!
と言いたいところですが、実際に当時の日本人のとった行動は真逆で、その瞬間はインドを見ていました。
一体なぜ?
本題に入る前に、その事実がわかる最も極端な「事件」を見てみましょう。
本日の記事 日清戦争の主力艦隊 時代に逆行してインドを目指す
この記事からわかること
表題の通り、あなたの常識を覆します!!!
日本にとってインドがとても大切な国であったことが分かります。
この記事を書いているなぎささんは
大学時代の卒論で「明治期の日印交流史」を書きました。
何のご縁か、それがミリオンユーチューバーのマヨさんの手元に届き、最近動画化されました。
この波に乗って、卒業後も書き溜めていたことを一挙排出中です。
東南アジアに売られ、娼婦として働いていた島木さん。
紆余曲折あり、インドで起業。
彼女のマッサージ医院には、ガンディーさんも顧客として来ていた。苦労を重ねて、強く生きた彼女の言葉は含蓄に富んでおり、我々も学ぶものが多くある。
動画はこちら
👉https://t.co/HYz7YYIwpO@museindia pic.twitter.com/acPxKFYme1— まよ🇮🇳インドの魅力を伝えたい (@MayoLoveIndia) March 14, 2022
この記事の対象読者
マヨさんのファン。みほ先輩のファン。インド好きの日本人。インドと商売がある人。歴史好きの人。
マヨさんファンのために
まずは本題に入る前に、彼女の動画を紹介します。(右端にあるのが私の卒論です)
ことのついでに私の卒論もシェア
このリンクから、私が12年前に書いた卒論が読めます。
いつか出版したい。。。
軍艦吉野の帰還報告
それでは本題です。まずは説明したい文章の原文抜粋を紹介します。
この文章は国立公文書館アジア歴史資料センターがネット公開している「防衛省防衛研究所」の資料です。
「*」は毛筆で読解できなかった箇所です。
原文#1 報告書 軍艦吉野の艦長 河原要一大佐 宛 (P63~)
我郵船会社の信用を内外に発揚したるは本官の固く新するところなり。
いわんや我が軍艦吉野は港内諸軍艦と比して第一の勢力を有し、
堂々たる国旗厳粛なる軍隊を彼に示し 彼をして敬畏の念を起こさしめたるのみならず、
我商業の信用を発揚するの道において活発なる運動をなし
恩威以て彼の敵愛を得たるとおけるや。
しかりと*もこと素なり。創業の**基礎*た確手たるあたはず。***
内には領事を派遣し、外とは断へず軍艦を巡行せしめて以て内外より声援を張る。
(1894年2月7日)
原文#2 報告書 外軍大臣 西郷従道殿 宛 (P65~)
インド孟買港の寄港につき意見具申
同国日本郵船会社がインド孟買港へ定期航路を開始するや
P&O(彼阿)会社は先に世上に宣言ひるかごとく大いに運賃を減らし
以て競争の端緒を開けり抑えるもP&O会社は久しく大東及び
オーストラリアにおける航権を専らにし次第に規模を拡張し己に
今日にありては英国中屈指の一大会社たるの面目を致せる世人のよく知るところなり。
誠に孟買、コロンボ、シンガポール、香港の各港において東より西より南より北より
船艪相衡して出入りする船舶を見るに美にして且つ大なるものは皆P&O会社の所有にあらざるはなし。
同社の東洋及びオーストラリアにおける業務はまた盛んなりというべし
今郵船会社は微々たる45隻の荷船をもって彼と競争するのは殆ど望むべからざる事たり。
故に同社は日本の諸会社との英訳期限を経過する暁に至らば一敗地に塗るの境遇に陥るなからんや。
夫し日本の富国強兵を経営するの国是は外国貿易にありて
而て外国貿易を発達するの術は一にして之らずと*も先つ海洋運輸権を我に収るをもって、
第一着平となすもとより言を要せざるなり。
しからばすなわち我が政府は直接には金銭上の保護を郵船会社に興*且つ
間接的には内国における諸会社を糾合して今日の契約を永遠継讀せしめもって
同社を保護するの方針を執る。
今日の急務なるかごとし右意見具申しそうろうなり。
(1894年2月15日)
原文#3 報告書 内閣総理大臣 伊藤博文 宛 (P1~2)
軍艦吉野英国より廻航の次 視察のため孟買寄港せしめたり。別紙の通り報告。(1894年3月21日)
要約すると
”外国貿易は日本の国是である富国強兵と密接につながっており、
日本政府は日本郵船が開設したムンバイ航路を保護する必要がある。
具体的には、領事館の設置と補助金交付、国内繊維業者との連携、軍艦の護衛があげられる。
そして、これは急務である。”
という内容です。
この文章の属性
この文章は日清戦争(1894年7月)の直前に英国のアームストロング社で竣工した軍艦吉野が、その帰路でムンバイ港に寄港(同年1月16日〜2月)した際の報告書です。
文書報告は乗船していた海軍高官複数名から艦長河原要一大佐に集約され(同年2月7日)、その後、海軍大臣(西郷従道 伯爵)を経由(同年2月15日)して、内閣総理大臣である伊藤博文にあげらえれています(同年3月21日)。
軍艦吉野の軍事的、政治的重要性
軍艦吉野が「日清戦争の主役」であったことを考えると、この報告書には違和感しかありません。
軍事面では日清戦争の主力艦隊
まず軍艦吉野は日清戦争の主力艦隊でした。
建造されたのは英国のアームストロング社で、当時世界最速の軍艦でした。
英国から日本に帰る途中、補給目的でムンバイ(かスリランカ)には必ず寄ることになります。これが1894年2月のことです。
帰国すると、5ヶ月後の1894年7月25日には日清戦争が始まります。
開戦の決め手は直前に日英通商条約(同年7月16日)が取り交わされ、英国の不参戦が確認できたことです。
英国帰りで日清戦争を目指す軍艦吉野にとっては、英国と清国(中国)はとても意識する存在でした。
そんな彼らが、なぜ、ロンドンでなく、中国でなく、インドの貿易に注目していたのでしょうか?
政治面では憲政史上初の内閣不信任案
さらに言えば、この軍艦吉野は膨大な建造予算を理由に憲政史上初の内閣不信任案を呼び起こしました。
戦争という危機感からか、結果的に内閣解散は免れたものの、憲法発布後間もない日本政府にとって、予算的にも、政治的にも、この軍艦の建造費は大きな問題でした。
軍艦吉野と言えば、当時軍事的にも、政治的にも注目の的でした。
つまり艦長 河原要一大佐は日清戦争の重要人物
この当時、河原要一艦長がどれだけ戦争の重要人物であったか、想像は容易です。
当然の如く帰還報告は内閣総理大臣 伊藤博文まで上がり、彼の見聞きしたものは重要視されました。
そんな彼が主張したのが「ムンバイ航路の保護」と「ムンバイ領事館」という言葉だったので、周囲は驚いたはずです。
日本がとった行動
上記の話はインド好きの私が都合よく事実のつまみ食いをして作り上げた話ではありません。
日本は日清戦争に国家の浮沈をかけて挑む傍ら、インドを目指していました。
首相 伊藤博文主導のインド進出
事実、超急ピッチで下記二つの政策が実行されました。日清戦争下の1894年のことです。
- 在ムンバイ日本領事館の開設
- 横浜正金銀行の支店設立
河原要一大佐は海軍大臣に帰還報告をした後、大臣と話を合わせ伊藤博文のところに向かいました。目的は総理への陳情で、ムンバイ航路の保護のため、領事の館開設と補助金給付の承認取りでした。
わずか1ヶ月間程度の滞在でしたが、その間に各国領事館の進出状況(十五カ国)や在留邦人の実態、今後の日印貿易、ムンバイの都市としての重要性、果てには日本領事館の場所家賃交渉まで済ませていました。
報告資料の目次だけでも、綿密な調査があったことがわかります。
- 印度孟買港ヲ開航ニ付意見具申
- 孟買港碇泊中実況報告
- 日本巡洋艦吉野
- 孟買ノ沿革(高桑勇、秋山真之)
- 教育及警察
- 市内一般ノ景況及人情
- 各国領事館ノ数及我国ノ領事館ヲ建ツル所
- 孟買港一般ノ景況(木山信吉、梶川良吉)
- 天候及風候
- 淡水及通舟ノ便否
- 造船所及船渠ノ景況(井出謙治、村山格一)
- 軍艦商船出入数(田所広海、西紳一郎、加藤友三郎)
- 孟買沿革ノ景況
- 英領印度孟買市兵制視察報告
- 孟買港諸機械工場視察報告(鈴木富造、中島与曾八、鈴木三郎、三宅甲造、深見鐘三郎)
- 石炭ニ就テ
- 孟買衛生ノ状況(鈴木重治、荻沢貫一)
- 商業上ノ景況(桜孝太郎)
- 銀行及諸会社ノ景況
- 水産鉱産物
- 税関ニ関スル件
- 日本人在住数
- 人口人種及外国人ノ数並ニ区別孟買市一般ノ景況(片桐酉次郎)
軍隊に配布された軍歌『孟買(ムンバイ)航路』
これは先日の記事の通りです。開戦2日前に印刷され、開戦2日後に兵士に配られました。
河原大佐のインド滞在記録は上記の通りですが、おそらく「記録」には残らない強い「記憶」があありました。
彼はムンバイ滞在中に、鉄道と軍艦が行き交うアジア最先端の都市を目の当たりにしました。ここに日本の未来を重ねたことでしょう。市長やタタ財閥、日系企業の駐在員や在留邦人とも交流を持ち、地元メディアにも取り上げられていました。
遠い大都市で、日本人が活躍していることを知った彼は感動したはずです。
この感動が結果的に軍歌『ムンバイ航路』となり、日清戦争に出向く兵士に配られました。
巨大財閥のインド進出
「商社」という業態は世界でも日本独特の産業です。
これができた背景はムンバイから綿花を買う必要性であり、同じく日清戦争下の1894年に支店が開設されました。
- 三菱 日本郵船のムンバイ航路開設
- 三井 三井物産のムンバイ支店開設
- 日本綿花(現:双日)のムンバイ支店開設
三菱財閥(日本郵船)がムンバイ航路を作ったことは、軍歌になるほど国家としての誇りでした。
三井財閥(三井物産)はムンバイに止まらず、インド内陸部まで進出し、直接綿花の買い付けをしました。後に書きますが、彼はムンバイで亡くなり、日本人墓地に埋葬され、今もインドに残っています。
日本綿花(双日)に関しては、インド貿易の歴史が会社の創業伝説として大々的に企業HPに掲載されています。
深まる疑問
さてさて、この奇行にはなぞが付きまといます。
深まる疑問
- なぜこの時期なのか?(日清戦争の方が大切では?)
- なぜこうも短期集中的にインド進出ができたのか?
- 一体「だれが準備」した?
混迷を極める戦争前後、逆説的にインドに向かうには「誰かの壮大な準備」が必要でした。
この「だれか?」を付き詰めると、色んな答えが見える
- 実行部隊1 印綿業視察団(渋沢栄一と大久保利通)と国内繊維業界
- 実行部隊2 日本郵船
- 実行部隊3 軍艦吉野の河原艦長
- 実行部隊4 ムンバイ在留邦人
この物語はこのなぞの「ムンバイ在留邦人」を掘り起こしていくドキュメントです。